第7代越前敦賀藩主。通称、右京・松之丞・左京亮。飛騨守。号、魯堂。江戸出身。若狭小浜の酒井家分家。父、第6代藩主酒井忠蓋(四男)。天保4年(1833)父の死去にともない第7代藩主となる。天保14年(1843)大坂常番から西丸若年寄となり、嘉永6年(1853)若年寄勝手および外国事務掛となる。安政6年(1859)7月26日外国事務掛遠藤胤統、酒井忠毘は、天徳寺(港区)において東シベリア総督ムラヴィヨフと樺太境界について交渉、ロシア側の主張を退けた。元治元年(1864)9月にイギリス・フランス・アメリカなどと交渉し下関条約を締結。また、幕府制でも天皇制でもない大統領制の郡県制を考えていたともいわれる。佐幕の立場であったが、周辺諸藩が官軍側になりはじめ、慶応3年(1867)子の酒井忠経に家督を譲って隠居した。「高雲院殿魯堂日新大居士」。
※昆の部分は、正しくは"田"辺に"比"。
酒井忠経(さかいただつね) 嘉永元年9月〜明治17年12月(1848-1884)
第8代越前敦賀藩主(最後)。通称、定之丞・松之丞・左京亮。父、第7代越前敦賀藩主酒井忠毘(4男)。江戸出身。慶応3年(1867)6月17日父の隠退にともない藩主となる。戊辰戦争では本家の小浜藩や父と反対に新政府側に組みした。明治2年(1869)には版籍奉還により小浜藩知事。明治3年(1870)敦賀藩を鞠山藩と改称したが、廃藩置県で権知事。「清徳院殿霞堂日遊大居士」。
酒井忠亮(さかいただあき) 明治3年10月〜昭和3年8月1日(1870-1928)
貴族院議員。子爵。父、越前敦賀藩第8代主酒井忠経(さかいただつね)(長男)。幼名、松之助。明治17年(1884)7月8日華族令により子爵となる。学習院高等科卒業。帝国大学法律科卒業。明治34年貴族院議員に選出され、研究会の常務委員となる。大正2年(1913)1月13日第3次桂内閣時に外務大臣を兼務していた桂首相が、渋沢栄一、日銀総裁高橋是清ら30余名を官邸に招待し、殖民会社設立を要請。これに応え同年3月15日ブラジル拓殖株式会社が設立した。このとき、酒井忠亮が取締役会長となった。ほかに横浜正金銀行・海外興産・高砂商事の重役を努める。59歳。なお、明治3年(1870)敦賀藩は、鞠山藩と改称された。また、正室は、松平康英(まつだいら やすひで:老中・陸奥国棚倉藩第4代藩主・武蔵国川越藩初代藩主・松井松平家12代)の娘。