笹田黙介(ささだもくすけ) 弘化3年7月20日〜大正14年6月8日(1846-1925)
秩父「困民党」蜂起事件(秩父事件)時の埼玉県書記官。山口県出身。埼玉県2代白根多助県令を補佐し、庶務・警察・監獄の行政事務を確立。明治15年(1882)者大埼玉県警部長。明治17年(1884)「秩父事件」の処理に当たる。正五位勲五等。80歳。
※ 秩父事件: 明治維新後、生糸輸出のため秩父の養蚕農家の暮らしは向上したが、西南戦争以来の不換紙幣乱発によるインフレが起き、これを収めるため松方大蔵卿は大増税と紙幣整理を強行。そのために起きたデフレで物価と賃金は暴落し、不況の波は秩父の養蚕農家にも襲いかかった。農民は借金をして凌ごうとするが、景気は好転せず、違法な高利貸の罠に陥り、土地や家を奪われた。違法な高利貸を警察や秩父郡役所に訴えるが却下される。自由党大井憲太郎らは、合法闘争から蜂起準備に作戦を変更。農民を集めた「困民党」を組織。しかし自由党は解散させられる。農民総理田代栄助の困民党軍は、明治17年(1884)10月31日金比羅神社に集結し、3000人にもなって火縄銃や刀などを持って蜂起し、警察分署、戸長役場、高利貸を襲撃する。軍用金調達は豪家から行われた。襲撃を繰り返し、大宮郷へ向かった。11月2日埼玉県書記官笹田黙介は、内務大臣山県有朋宛に憲兵派遣要請の電報を打った。ただちに憲兵3個小隊・鎮台兵1個大隊が派遣された。荒川の河原で憲兵隊と遭遇し、撃ち合いとなるも、憲兵隊は装備の銃と弾丸が違っていて撃つことができず、火縄銃を持った農民に敗退させられる。11月4日困民党軍に死者・負傷者が出始めると、農民達の間にパニックが起こり、軍列が乱れ、本陣が解体する。11月9日最終的に蜂起は終結する。事件後、約14000名が処罰され、首謀者とされた田代栄助・菊池貫平らの7名には死刑判決が下された。
墓は、谷中霊園 甲6号1側。ひょうたん横丁に面する。正面「笹田黙介之墓/笹田浪子之墓」。