関信三(せきしんぞう)    ?〜明治12年11月4日(?-1879)

    「幼稚園」を誕生させた人。三河一色の安休寺出身。号、僧猶龍。別名、安藤劉太郎。京都高倉学寮(大谷大学の前身)に関係、キリスト教禁止を基本としていた明治政府に従い文久2年(1862)東本願寺より長崎に派遣され、破邪顕清正運動に従事、のち横浜弾正台(警察機構)のスパイとして明治5年(1872)まで活躍。同年3月安藤劉太郎と偽名を使い、日本基督公開第1回洗礼者として横浜海岸教会に潜り込んだ。同年9月東本願寺現如上人に関信三として随行して欧州に留学、明治7年(1874)帰朝。以来、婦人教育者・幼児教育者として活躍。明治9年(1876)文部大輔(大臣)田中不二麿・東京女子師範学校摂理の中村正直・附属幼稚園初代監事の関信三らによって東京女子師範学校に日本最初の公立幼稚園を創立、初代監事(園長)となる。開園当初は、園児は上流階級の子女が大部分を占めていて振袖保育と呼ばれた。「幼稚園記」「幼稚園法二十遊嬉」などを翻訳、初期の幼稚園界に貢献した。

墓は、宗善寺墓地。本堂裏墓地入口よりすぐ左へ。「松岳院釈寛静」。墓碑は、東京女子師範学校付属幼稚園の創業者の一人であるドイツ人フレーベルの墓碑と同型に作られた。