関藤藤蔭(せきふじとういん)    文化4年〜明治9年12月29日(1807-1876)

    福山藩藩校誠之館教授・福山藩儒官。名、成章。字、君達。通称、石川淵蔵・石川和介・石川文兵衛。号、藤蔭。父、備中吉浜(笠岡市吉浜)の社家兼医師・関藤政信(四男)。幼くして両親を亡くし、備中吉井村の村医石川順介の養子となる。14歳で兄に師事、学問を習う。敬業館、頼山陽の塾を経て、江戸で遊学。天保12年(1841)故郷の福山で開塾、天保14年(1843)福山藩儒官となる。水戸藩九代藩主徳川斉昭(1800-1860)の幽閉解除の運動、藩校誠之館の創立、ペリー来航時の浦賀・下田探索、2回にわたる蝦夷地探査行など老中阿部正弘(1819-1857)を補佐して活躍。執政となり幕末藩政に尽くす。また、明治元年(1868)長州軍による福山城囲戦で和議を成立させ城下を戦火から救った。明治2年(1869)版籍奉還後隠居。明治5年(1872)東京へ移住。退隠後は、詩を作って暮らす。福山藩主邸にて没する。70歳。著書:「蝦夷紀行」、「詩書筆記」、「観国録」。

墓は、谷中霊園甲9号11側。飛び地のため甲9号30側の裏(西)にある。