重野安繹(しげのやすつぐ) 文政10年10月6日〜明治43年12月6日(1827-1910)
歴史学者。鹿児島藩士。字、士徳(子徳)。号、成斎・曙戒軒鞭。通称、厚之丞。藩校「造士館」に学ぶ。嘉永元年(1848)藩から昌平黌に派遣され安積艮斎らに師事。安政4年(1857)同僚の金を使い込み、その責を負って遠島(奄美大島)に処せられた。ちょうど菊池源吾と名乗っていた西郷隆盛と出会い、西郷に漢詩の手ほどきをしたという。文久3年(1863)赦され帰藩。薩英戦争の際に英国側との交渉に当たる。元治元年(1864)造士館助教となり、薩摩藩国父島津久光の命により、「皇朝世鑑」を著わす。昌平校の生徒にもなり、塩谷宕陰・安井息軒などから学ぶ。維新後は文部省に勤め、「大日本編年史」などの修史事業に専念した。明治前期にはめずらしい近代史観の持主で、考証を重視、今日の歴史学の基礎を築いた。明治21年(1888)東京大学臨時編年史編纂掛委員長として東京大学教授を兼ね、翌年貴族院議員・日本初の文学博士。元老院議官・錦鶏間祗候。明治23年(1890)「久米邦武筆禍事件」に関係し、翌年に帝国大学教授を辞職。修史事業も中止となった。84歳。長女下安子(しもやすこ:?-1923)は、元水産講習所長下啓助の妻で、墓は乙12号9側にある。養女尚は、大久保利通の長男大久保利和に嫁す。著書:「国史総覧稿」、「史徴墨宝考証」、「国史眼」など。
墓は、谷中霊園乙6号5側。近くに碑もある。また、墓地内に内藤虎太郎識碑あり。正面「文学博士重野安繹墓」。