塩谷良翰(しおのやりょうかん)    天保6年〜大正12年10月10日(1835-1923)

    登米県大参事。通称、甲介。号、謙堂。父、館林藩秋元氏の家臣塩谷市郎左衛門。16歳で江戸に出て経書を学ぶ。万延元年(1860)桜田門の変に浪士の嫌疑を受け宿舎を追われる。文久元年(1861)関西各地で勤王の志士と交流。明治元年(1868)官軍が東進すると藩内が佐幕と勤王派に2分し騒然とするを収め、藩意を勤王に決する。これを太政官新田三郎に知らせるべく京都に赴き、執政連署の書状を提出。戊辰の役では大村益次郎配下となり、古河・結城・宇都宮の各藩を説き勤王に組させる。のち、大総督府参謀付き、民部省太夫となる。のち、登米県大参事となり仙台県参事心得・宮城県令・青森県令を歴任。明治9年辞官し、銀行業に転身。著書:「塩谷良翰懐古録」。従五位。89歳。「純忠院廉堂良翰大居士」。

塩谷恒太郎(しおのやつねたろう)     元治元年〜昭和25年3月6日(1864-1950)

     足利鉱毒事件時の弁護士。父、塩谷良翰(長男)。東京出身。英国法律学校に学ぶ。明治21年(1888)横浜・東京各地方裁判所判事歴補。明治23年(1890)判事。東京裁判所勤務の後辞官。弁護士を開業。「埼玉高鹿事件」、「足尾鉱毒事件」などの大事件を担当。東京弁護士会会長・日本弁護士会理事・帝国弁護士会理事・司法省陪審法実施準備委員会委員。87歳。著書・訳:「英国弁護士制度 (1948年): JRVマーチャント」、「黒岩氏と浅野セメント鎮灰問題」など。「恒説院憲道至誠居士」。

墓は、谷中霊園 乙3号19側。正面「塩谷家之墓」。塩は旧字体。