秋元礼朝(あきもとひろとも)     嘉永元年〜明治16年6月13日(1848-1883)

    上野国館林藩第2代藩主。幼名、五十橘。父、遠江国掛川藩主太田資始(五男)。安政6年9月館林藩主秋元志朝の養子となり、元冶元年(1864)10月志朝が禁門の変を嫌い藩職を辞したあとを継いで上野国館林藩(群馬県館林)主となる。慶応元年(1865)朝廷より高鷲原陵修繕の功を賞せられる。明治元年(1868)正月戊辰戦争発生時、分領河内国より役夫を政府軍に献じた。関東諸藩に率先して上洛の途上、東山道先鋒総督と倉賀野(群馬県高崎)で会い、その遅参を責められたが大砲2門・砲手15人・軍資金を献上、政府軍の一翼を許された。以後、関東・奥羽征討に藩兵を派遣して官軍として功をあげた。明治2年(1869)館林藩知事・皇宮警備に任ぜられ、明治4年(1871)廃藩まで勤めた。贈正四位。36歳。

※ 当家は、関白太政大臣藤原道兼の後裔。大久保頼綱の長男大久保泰業ののち、泰業が別家して嘉禄年間(1225年4月20日〜1227年12月10日)初めて上総秋元庄を領し、地名をもって姓とする。13代を経て越中守長朝上杉憲盛に仕え、のち徳川家康に属し、上野総社に在城する泰朝甲斐国郡内の城代を命ぜられ、谷村城に住む。その孫の秋元喬知が老中になり、武州川越6万石に移封される。秋元涼朝になって出羽国山県城を賜り、のち秋元志朝が館林に移り、礼朝・興朝に至る。秋元興朝題額・市川三兼書の碑「清徳之鑑」がある。

秋元興朝(あきもとおきとも/こうちょう)     安政4年〜大正6年4月23日(1857-1917)

     子爵・旧館林第3代藩主。幼名、和三郎。号、蔚堂。父、戸田忠至(次男)。東京出身。明治4年(1871)館林11代藩主秋元礼朝(ひろとも)の養子となる。フランス公使館の書記官となり、明治28年(1895)特命全権公使として渡仏。政友会員として活動。明治22年(1889)10月に三条実美公爵が中心になり、侯爵蜂須賀茂韶、侯爵菊亭修季、伯爵戸田康泰、伯爵大谷光宝、子爵秋元興朝らの華族組合が北海道庁の土地5万町歩を華族組合雨竜農場とするなど北海道の開拓に尽力した。美術・相撲を好み、明治35年(1902)日下会(ひのしたかい)を創り相撲道の向上を図った。常陸山会の会長にもなる。明治40年(1907)私立日本女子技芸学校(→東京市立第一女子技芸学校→都立忍岡高校)校長。従五位。61歳。正室は、陸奥国盛岡藩14代藩主南部利剛(なんぶとしひさ:1828-1896)の3女宗子(1866-1910.7.9)。継室は、高知藩主山内容堂の3女八重子(-1919.10.9)。なお、兄は戸田忠綱、その子の子爵戸田忠義の伯父にあたる秋元春朝題額・塩谷良翰撰文の碑がある。

秋元春朝(あきもとはるとも)     明治14年〜昭和23年5月13日(1881-1948)

     東洋商業学校校長・子爵・秋元家13代当主。父、周防徳山藩毛利元功(3男)。毛利元秀の弟、宍戸功男の兄。先代12代当主秋元興朝の養子。明治37年(1904)より米英独に留学。バーミンガム大学卒業。日英博覧会事務取扱。拓殖局調査事務嘱託。拓殖総裁。逓信大臣・鉄道大臣各秘書官。大正9年(1920)英国皇太子来日のとき接待準備委員貴族院議員。帝都高速度交通営団監事。上毛電鉄相談役。67歳。夫人光子は、秋元興朝の娘(-1930.1.11)。長男の秋元順朝(あきもとのりとも:1905-1967)は、大蔵書記官。

墓は、谷中霊園乙14号1側。JR側を背にした高台の中。正面「秋元家之墓」。