戸田忠至(とだただゆき) 文化6年8月11日〜明治16年3月30日(1809-1883)
下野曾我野藩主・高徳藩初代藩主・戸田家2代。別名、間瀬和三郎。父、下野国宇都宮藩戸田忠舜(ただきよ)(二男)。重臣間瀬家を継ぐ。会津藩の長沼流軍学を学ぶ。弘化元年(1844)家老大和守となる。戸田忠恕(ただひろ)・戸田忠友の2代に家老として仕える。文久2年(1862)朝廷からの任命を受けた忠恕の意を受け、県信緝(あがたのぶつぐ)と山陵奉行として神武陵をはじめ、歴代の天皇陵100余の修復に貢献した。慶応2年(1866)この功績により1万石となり独立を許され下野国高徳藩初代藩主となった。内政的には嘉永年間から「地方改正」を行うに際し、黒船による江戸の動揺に外国との戦争に備え、菊池教中・川村伝左衛門ら豪商の資本を引き揚げ、新田開発を行った。対外的には、菊池教中などの関わる文久2年(1862)坂下門事件後の宇都宮藩の苦境を打開するため、全く非政治的な山陵修補に着手した。慶応2年(1866)下野曾我野に1万石を与えられ大名となる。明治維新後は、参与、宮内大丞、新政府の山陵修補奉行、京都裁判所副総督などを歴任し、家督を戸田忠綱に譲った。75歳。明治30年(1897)贈従二位。
墓は、谷中霊園乙13号1側。当該区画には同族墓多数あり。隣りに戸田忠綱墓もある。正面「贈従二位戸田戸田忠至公墓」。