菊池教中(きくちきょうちゅう)/菊池澹如    文政11年〜文久2年8月8日(1828-1862)

    豪商・豪農・宇都宮藩士。宇都宮出身。名、教中。字、介石。通称、介之介・介司・佐野屋孝兵衛・孝之介。号、澹如(たんじょ)。変名、浦安邦一郎。父、豪商大橋淡雅。漢詩・書画に才能を発揮。嘉永6年(1853)26歳の時佐野屋を継ぐが、異国船渡来による営業不振となった。このため姉大橋巻子の夫大橋訥庵の影響もあり尊王攘夷論者となるとともに賤商思想を持った。文久元年(1861)10月尾高長七郎・多賀谷勇の両人が唱えた輪王寺宮擁立挙兵運動を支援するが失敗。文久2年(1862)坂下門外にて老中安藤信正が草莽志士らにより襲撃される事件を支援したが、宇都宮藩士岡田真吾らによる一橋慶喜擁立挙兵計画が、訥菴の軽挙により暴露するや逮捕投獄され、文久2年(1862)7月1日出獄したが、病のため没した。毒殺されたとの説もある。35歳。明治41年(1908)贈正五位。著書:「澹如詩稿」、「幽因日記」、「先行淡雅府君行実摘録」。

※ 奥鬼怒温泉を始めとする鬼怒川沿岸の岡本・桑島の両新田を開発は、嘉永4年(1851)に菊池教中と父の大橋淡雅が開発したといわれている。これは、当時の情勢から外国との戦争があると予想し資財を守るための策であった。

墓は、天竜院。伊東玄朴墓近く。敬子夫人(明治41年6月8日没)の墓と並んでいて、右側。正面「菊池教中之墓」。「義烈院眞岸澹如居士」。宇都宮生福寺にもある。後ろ側には菊池長四郎の墓がある。また、「質店さのや」関係の墓(静軒菊池仲盛およびその養子大橋陶庵4男菊池脩軒)も周囲にある。

菊池静軒墓、菊池脩軒墓