獅子文六(ししぶんろく)    明治26年7月1日〜昭和44年12月13日(1893-1969)

    小説家・劇作家・演出家。本名、岩田豊雄。横浜弁天通出身。父、旧中津藩士の絹織物商。慶応義塾幼稚舎に途中編入、普通部を経て慶応義塾大学理財科予科に進学するが中退。父の岩田商会が没落し、文学にふけり学業を放棄、フランスで演劇を勉強する。「脚のあるパリ風景」(著訳)が処女作。明治大学文芸科で「演出論」を講義。「東は東」が処女戯曲。大正11年(1922)演劇を志し渡仏。帰国後、岸田国士と新劇研究所を創設し、翻訳や演出を行う。昭和12年(1937)久保田万太郎・岸田国士らと「文学座」を創設し、劇作・演出に尽力するも、生活ができず小説を書く。演劇評論集「近代劇以後」、「新劇と私」を著わす。昭和6年(1931)「新青年」に風刺ユーモア小説「金色青春譜」を発表。昭和8年(1933)「西洋色豪伝」を発表してから、"4×4の16"にかけて"文豪"ならぬ"文六"として筆名を"獅子文六"とした。以後、「八幸会異変」、「遊覧列車」、「浮世酒場」、「楽天公子」を発表。また、「悦ちゃん」で新聞小説に地歩を固め、ユーモア文学に新風を入れた。さらに、「達磨町七番地」、「沙羅乙女」などを発表。戦時中は岩田豊雄の本名で「海軍」など多くの戦争文学ものを発表、成功する。戦後は「自由学校」、「大番」、「てんやわんや」などで活躍。またフランス近代劇の翻訳者として名をなした。日本芸術院会員、文化勲章受章。77歳。

※ 最初の夫人はフランス人のマリー ショウミーで、1女を儲ける。昭和26年(1951)59歳で40歳の松方幸子(再婚:旧岩国藩主子爵吉川重吉の娘)と3度目の結婚をし、61歳で長男敦夫を儲ける。なお、"文六"は、4×4=16に掛けたと言われ、また、"文豪"に掛けたとも言われる。

墓は、谷中霊園 甲9号22側。南北の通路から2基目。正面「岩田家之墓」とだけあるが、塔婆に「獅子文六」とある。「牡丹亭豊雄獅子文六居士」。