吉川重吉(きっかわちょうきち)    安政6年12月24日〜大正4年12月27日(1859-1915)

    旧岩国吉川家の出で外務官僚・男爵。父、毛利家支流の岩国藩主吉川経幹(つねまさ)(三男)。岩国藩最後の藩主吉川経健の弟。文久3年(1863)9月13日毛利敬親の養子となる。当家は、藤原鎌足の後裔。吉川佐衛門尉経義13世元春の吉川子爵家の岐れ。明治4年(1871)の末に、岩倉使節団に同行して吉川重吉・田中貞吉主従が米国(ハーバード大学で学ぶ)に渡り明治9年(1876)に帰省。米国に着いたのは明治5年正月なので、資料によっては留学期間の開始が明治5年となっているが誤りではない。帰国後外務省に出仕。明治24年(1891)11月17日吉川家を継ぎ、父吉川経幹の勲功により男爵。のち貴族院議員となる。従三位勲三等。57歳。妻須賀子(1874-1947)は伊予大洲(おおず)藩最後の藩主加藤泰秋(子爵)と西園寺公望(さいおんじきんもち)妹福子の間の二女。長男の。吉川重国は、宮内省式部職狩猟課長で、皇后様のお妃教育担当および紀子様の宮中儀礼の先生。娘の英子(長女)は、原田豊吉の子で西園寺公望秘書の原田熊雄と結婚。娘の春子(次女)は木戸孝允(きどたかよし、桂小五郎)の家系に嫁いだ。さらに、娘の幸子(三女)は獅子文六(岩田豊雄)の妻である。

墓は、乙12号2側。三条西季知墓前通路の突き当たり。

※ 亡くなられたときは、お墓の傍に番小屋をこしらえ、50日間書生が寝ずの番をしたという。これは、49日の審判までは魂が成仏せず、墓の周りを浮遊していると考えられていたため。