鈴木利雄(すずきとしお)     万治3年〜寛保3年(1660-1743)

    江戸中期の大目付。初名、重倫・三之助・源五右衛門。宝暦6年(1678)小十人となり、10口を給う。延宝8年(1680)米100俵を給う。貞享3年(1686)御小納戸番。元禄元年(1688)組頭。元禄7年(1694)御納戸頭。元禄10年(1679)采地500石を給い、御目付となり、日光へ赴く。宝永7年(1710)甲府の徳川綱重の霊屋造営および法会を担当。従五位飛騨守に叙任。正徳2年(1712)大坂町奉行、1200石となる。享保14年(1729)大目付。元文3年(1738)辞職し寄合となる。84歳。

※ 大目付:職制上は老中に属し、大名・高家および朝廷を監視しする役割を持った役職。有名なところでは、柳生十兵衛の父柳生宗矩(やぎゅうむねのり)がいる。他に、遠山金四郎こと遠山景元(1844)・永井尚志(1864-1867)など。

墓は、長明寺墓地(谷中5-10-10)。鐘楼横を入り、中口穂山の大きな碑の辺りで一本右を行き、最奥。外の道路の電信柱が目安。正面「鈴木家累代墓」。「興徳院殿順道日惠大居士」。