彰義隊士の墓(しょうぎたいしのはか)    慶応4年5月15日(1868)

    維新の際、江戸城無血入城に反対し輪王寺宮公現親王を奉じて上野の山にたてこもった3000人の旧幕臣を彰義隊という。戊辰戦争(ぼしんせんそう:慶応4年/明治元年〜明治2年:1868-1869)の上野寛永寺の戦い(上野戦争)である。慶応4年(1868)5月15日に大村益次郎の指揮する官軍によってわずか半日で壊滅した。この後、悪臭漂う死体の収容をしたのが三ノ輪円通寺の住職仏麿和尚と、寛永寺御用商人三河屋幸三郎、新門辰五郎らであった。この時の戦死者180名の遺体の火葬場の跡である。墓標にある「戦士之墓」の文字は山岡鉄舟。政府をはばかって「彰義隊」の文字はない。

墓は、上野公園の西郷銅像そば。なお、H.N.もへい様から「上野アメヤ横町のNTT上野支店の屋上に彰義隊士の一人藤田重之丞の墓碑がある」との情報をご提供いただいた。