田母野秀顕(たものひであき)    嘉永3年〜明治16年11月29日(1850-1883)

    社会運動家。幼名、留彦・惠寛・千秋・秀顕。父、三春の神宮赤松某の庶子。三春藩士。福島県出身。幼くて父を亡くし孤児となったため土地の常楽院に入り、修験者となる。田母野と名乗る。維新時は、王事に尽くす。明治10年(1877)頃、河野広中・松本茂らと青少年の政治教育のための「正導館」を設立し、民権思想の普及に尽力した。河野広中らと藩閥専制政府に対抗する連判状を取り交わしていたが、明治15年(1882)福島県令三島通庸の暴政に対して起こした福島事件で石川島監獄に投獄され、明治16年(1883)獄中でチフスに罹り死んだ。国事犯のため高等法院を開設した最初となる。河野広中も投獄されたが、明治22年(1899)の憲法発布の恩赦で赦免となり、後に衆議院議員となる。
辞世:"噫々獄中の鬼と化す 誰か之を悼まざらんや"。

墓は、谷中霊園甲9号8側。草木で半分隠れていて傾いている。同時に投獄された花香恭次郎墓と並んでいる。明治17年(1844)5月苅宿仲衛の建立と思われる。「義岳秀顕居士」。