谷千城(たにたてき) 天保8年2月12日〜明治44年5月13日(1837-1911)
土佐藩士。軍人、政治家。名、申太郎、守部。号、隈山。第2代学習院院長。陸軍中将正二位勲一等子爵。父、谷万七(四男)。高知出身。安政6年(1859)江戸の安井息軒に師事。土佐に帰国して藩校・致道館で史学助教授。ここで武市半平太と知り合い尊王攘夷運動を始めるが、慶応2年(1866)、藩命で長崎を視察したとき、ここで後藤象二郎や坂本龍馬と交わって、次第に倒幕へ転向した。慶応3年(1867)に再び江戸に出て西郷隆盛と会い、討幕運動に参加し戊辰戦争で活躍。明治5年(1872)陸軍少将となり明治10年(1877)の西南戦争でも貢献した。明治17年(1884)学習院院長。明治18年(1885)伊藤内閣の初代農商務大臣。明治23年(1890)年貴族院子爵議員。流山で新撰組局長であった近藤勇を斬首獄門に処刑したのが谷千城といわれている。
墓は、乙9号11側。儒者で皇学の始祖の谷泰山(たにじざん)の子孫である谷千城(たにたてき)子爵家の墓所。ただし、H.N.もへい様から寄せられた情報によれば、ここに埋葬されているのは息子谷乙猪(子爵従五位)の夫人愛子と子孫代々で本人と夫人は高知県久万墓地に墓所がある。谷愛子(慶応元年4月24日〜明治28年9月26日・31歳)は男爵村田経芳の長女で、子に陸軍少将・子爵・貴族院議員の谷儀一がいる。
墓碑裏面
「村田氏名愛子男爵村田経芳長女慶応
元年四月二十四日生明治二十八年九
月二十六日卒享年三十一歳」