村田経芳(むらたつねよし)    天保9年6月10日〜大正10年2月9日(1838-1921)

    村田銃の開発者・陸軍少将・男爵。名、経芳。通称、勇右衛門。父、村田蘭斎経徳(長男)。薩摩藩藩士。鹿児島出身。薩摩藩随一の射撃の名手として知られ、戊辰戦争に外城一番隊(高岡隊)の隊長として従軍。鳥羽伏見から越後・米沢・会津若松と出陣。のち陸軍に入り明治4年(1871)歩兵大尉。明治8年(1875)フランス、ドイツ、スウェーデンなどに赴き射撃技術と兵器を調査視察。明治政府に小銃製造を建言。西南戦争(明治10年:1877)には陸軍少佐として従軍し銃の実戦経験を積み、改良研究に携わる。結果、陸軍歩兵用単発銃を完成し、明治13年(1880)陸軍卿大山巌が国産銃統一案を決定し、十三年式村田銃を陸軍正式銃として採用。明治16年(1883)陸軍大佐。さらに22年式連発村田銃を発明。日清戦争に採用される。日本の銃の歴史は、この後有坂成章の有坂銃へと続く。明治23年(1890)貴族院勅選議員・陸軍少将。明治29年(1896)男爵。肝臓病で没する。84歳。従二等勲一等瑞宝章。

※ 長女谷愛子は、谷千城の子子爵谷乙猪の妻。孫に陸軍少将谷儀一がいる。

墓は、谷中霊園乙7号1側。管理事務所前東へ行く舗装通路の1本右(南)側の通路を入る。左側。正面「従二等勲一等男爵村田経芳/室 久新子 墓」。