鄭永慶(ていえいけい)    安政6年〜明治28年7月17日(1859-1895)

    日本初の喫茶店を開いた人。長崎出身。中国語の通訳をしていた家系だが日本人である。父、鄭永寧(ていえいねい:養父)。北京では支那語を学び、京都では仏語学校に通い、明治7年(1859)16歳でエール大学に留学したが明治12年(1879)病気で中退。このときの学友に金子堅太郎・駒井重格・田尻稲次郎・目賀田種太郎などがいる。治癒後、岡山師範中学校で教鞭をとった。明治15年〜明治20年(1882-1887)大蔵省に勤めた。当時学位のない者に出世の望みなく辞めた。この頃寿子と結婚したが、赤子を残し病死。後妻に寿子の妹徳子と結婚したが、姉と同じ22歳で病死した。鹿鳴館時代の中、明治21年(1888)4月3日東京上野西黒門町に日本で最初の喫茶店「可否茶館(かひちゃかん)」を開店させた。しかし、赤字続きで明治24年(1891)に倒産。借金をして相場で失敗、西村鶴吉の偽名で密出国するも最初は失敗、明治25年(1892)再度渡米し病気のためワシントン州シアトルで死亡した。なぜか谷中霊園に墓がある。37歳。
※ コーヒー1杯は1銭5厘だった。

墓は、谷中霊園乙4号11側。正面「洪済院泰岳永慶居士/夢梅院日窓清節大姉」。裏面「明治二十八年七月十七日歿于米国藁盛頓州沙土耳行年三十七歳」。「夢梅院・・・」は、寿子のこと。