友平親徽(ともひらちかよし)/友平慎三郎(ともひらしんざぶろう)     天保13年〜明治24年2月22日(1842-1891)

    壬生藩の大砲奉行。名、親徽。通称、慎三郎。父、壬生藩士斉藤佐左衛門(三男)。栃木県出身。養父、友平栄。安政2年(1855)実弟の斉藤留蔵(佐左衛門四男)と共に江川太郎左衛門の塾に入門。天狗党が太平山に籠ったとき大砲を率いて出陣。天狗党が太平山から筑波へ戻った後の鎮撫戦でも大砲隊を率いて活躍。慶応4年(1868)戊辰の役で会津軍に加わり大砲隊を指揮し各地を転戦。宇都宮城を占領した旧幕府軍に壬生城内の状況を内通したため、「安塚の戦」となる。明治3年(1870)友平栄の養子となり、その娘伊代子を娶る。明治4年(1871)兵部省に出仕。明治5年(1872)ころ佐井正民・岩上俊温らと陸軍武庫中令史。明治6年(1873)陸軍武庫権大令史となる。明治8年(1875)ころ綾部幸煕・米田精らと陸軍省9等出仕。明治12年(1879)大尉に任じ砲兵第1方面本署員。明治16年(1883)砲兵会議所付。正7位。妻伊代子(明治35年2月21日歿)。子に友平親教がいる。50歳。

友平親教(ともひらちかのり)     明治4年〜明治27年3月3日(1871-1894)

     父、友平慎三郎。栃木県出身。米国ミシガン州デトロイトにて没する。24歳。

※ 斉藤留蔵(1844-1917): 16歳のとき勝海舟らと共に咸臨丸で渡米、その後岩倉使節団に同行して再び日本を離れる。

※ 壬生藩: 現在の栃木県にあった藩で、幕末には、幕府側に付くか、新政府側に付くか二分し揺れて、最終的には新政府側に付。

墓は、谷中霊園 乙12号3側。正面「友平親徽/友平伊代子/友平親教 之墓」。