東条琴台(とうじょうきんだい) 寛政7年6月7日〜明治11年9月26日(1795-1878)
儒者・考証学者。江戸芝宇田川町で誕生したが信濃出身。父、町医享哲(3男)。名、信耕。字、子蔵・義蔵。通称、文左衛門のち源右衛門。号、琴台・無得志斎・無得斎・呑海堂。伊東監田・亀田鵬斎・大田錦城・山本北山・尾藤二州等に師事。越後高田藩修道館教授をつとめた。太田錦城の推薦で平尾他山の娘貞の婿になったが学説上のことで藩と食い違い離婚して岩村(現岐阜県恵那市岩村町)を去った。旧姓に復してから多数の著書著した。文政7年(1824)林家に入門したが破門。転居を繰り返し嘉永元年(1848)「伊豆七島図考」が幕府の怒りに触れ、同3年(1850)池之端の高田藩邸に幽閉。のち越後高田に帰り後進の指導にあたった。維新後は上京し亀戸神社祠官。さらに教部省に出仕した。孫に歌人で教育家の下田歌子がいる。著:「伊豆七島図考」、「先哲叢談後編」、「諸藩蔵版書目筆記」など。83歳。
墓は、天眼寺墓地(谷中1-2-14)。向島蓮花寺に改葬した。