土谷秀立(つちやひでたつ) 嘉永2年〜大正8年12月18日(1849-1919)
我が国で初めてゴム製造業を創業した人。幼名、庫三郎。父、旧松前藩士田崎忠純(三男)。田崎東の次弟。東京本所出身。15歳で土谷駒三郎の養子となる。のち藩公に仕え120石を賜る。若いころは、勤王の兄田崎束に従って国事に奔走し、功あり50石を加増される。25歳のとき辞めて、実業に従事。はじめ煉瓦製造、さらに教育品製造・化学機械製造を経営。明治11年(1878)沈没船引き上げ、海産物採取などを業とする。このとき、潜水服に使用するゴム服が全て輸入品であることに着目、兄弟で協力してゴムの研究をし、ゴムの加硫化に成功。明治20年(1887)東京府内国工業品共進会に出品し、3等賞となる。明治25年(1892)弟の田崎忠篤・田崎忠恕・田崎長国らと土谷護謨製造所(三田ゴム製造)を興し、工場を新設する。以後、日清・日露・日独の3つの戦争では、軍需品・産業品・生活用品を供給、国に貢献する。電気事業で必要な絶縁物のエボナイトを作り、輸入品に対抗。71歳。
※ これが日本のゴム工業の誕生といわれているが、グッドイヤーの加硫発見に遅れること約50年後であった。
※ 田崎東(たざきあずま:1844-1869):名は忠貞。松前藩士で勤王。明治元年(1868)正義隊のメンバーとなり、官軍に属し、榎本武揚軍に敗れ、のち幕府脱走軍と戦い戦死。27歳。
墓は、寛永寺谷中墓地。乙11号14側の前左寄り。正面「土谷秀立/同 ゆう子 之墓」。
田崎忠純(1822-18846.5)墓および田崎忠篤(1851-1908.6.3)墓は、乙3号16側、正面「田崎家之墓」。
田崎忠恕(1858-1938.5.10)墓は、寛永寺谷中墓地 乙11号14側の前右寄り、正面「田崎忠恕之墓」。
田崎長国(1861?-1937.8.16)墓は、谷中霊園乙11号8側、正面「田崎」。