堤正巳(つつみまさみ)     ?〜明治24年12月24日(?-1891)

     「大津事件」の大審院部長判事。正四位勲三等。

※ 「大津事件」: 明治24年(1891)5月11日ロシア皇太子が滋賀観光の帰り、京都の宿舎へ向かう途中、沿道の護衛をしていた津田三蔵巡査が、サーベルで皇太子に切りつけた事件。一命はとりとめたが深手を負う。津田三蔵には、ロシアが日本に攻めてくるとの思いがあった。16日には、ロシア皇帝は、日本に対して賠償を要求しないと伝えていたが、20日には、明治天皇は、京都御所に児島惟謙(こじまこれかた)大審院長をはじめ、裁判長堤正巳と陪席判事6名中の4名を召し出し、「今般露国皇太子ニ関スル事件ハ国家ノ大事ナリ。注意シテ速カニ処分スヘシ」という勅語を与えた。のちにこれは、天皇による司法に対する明らかな干渉であったと言われる。政府も大国ロシアへの配慮から大逆罪(皇室に対する罪)を適用し極刑にするよう圧力をかけた。一方、大審院長児島惟謙は、大逆罪の適用は法に照らして無理、謀殺未遂罪とする意見書を首相らに提出。井上毅や尾崎三良などの裁判所外の官僚も激しく抵抗した。狂人一人の暴挙による国辱よりも、司法機関が法を曲げることの方が、はるかに大きな国際的威信の失墜になるというのが井上らの説だった。5月27日大津地裁で開かれた大審院法廷において、裁判長に大審第二部刑事部堤正巳が任命され、特別法廷が開かれ、津田三蔵に下された判決は、検事総長三好退蔵の死刑の論告に対し、謀殺未遂罪を適用し無期徒刑であった。これは、司法権の独立を守った初めての大事件であり、国際的にも日本が先進列強に劣らない法律国家であることを示すこととなった。

堤正義(つつみまさよし)    ?〜昭和18年11月14日(?-1943)

    工学博士。正三位勲一等。70歳。

墓は、谷中霊園 乙4号1側(低地側)。正面「堤家之墓」。