山田文太郎(やまだぶんたろう)     文久元年〜昭和7年12月30日(1861-1932)

    神岡鉱山事務所長・工学博士。父、福井県士族田口十内(三男)。明治8年(1875)山田慎の養嗣子となる。明治22年(1889)ドイツ鉱山学校に留学。帰国後、御料局技師。明治29年(1896)官を辞し、明治22年(1889)から皇室財産となっていた生野銀山に奉職。明治29年(1889)に三菱に払下げられ、三井鉱山に転じ、神岡鉱山事務所長となる。明治34年(1901)工学博士。従六位。著書:「一日之化学」。
※ 神岡鉱山事務所長時代の逸話:赤字続きで閉山をしたいが、村ひとつが潰れるというので、ずるずると先延ばし挽回をしている最中に、亜鉛の発明があり、亜鉛鉱に対する需要がおこり、亜鉛採掘が可能になり、閉山を回避できたという。

山田文雄(やまだふみお)     ?〜昭和53年8月16日(?-1978)

     東京都副知事。東京都安井知事時代(1947-1959)の副知事。

墓は、寛永寺谷中墓地。乙13号1側の前を入り、右側。正面「山田家之墓」。