山本速夫(やまもとはやお)/山本一郎    文政8年12月20日〜明治2年11月1日(1825-1869)

    三河吉田藩士・若松県大参事。本姓、穂積。名、重雄。通称、孫六。はじめ亀井氏。別名、山本一郎。代々父、亀井六五郎左衛門。吉田藩主松平家に剣道をもって仕えた。若年から羽田野敬雄に国学を学び勤皇の志をもつ。「禁門の変」の数日前に脱藩、山本一郎と改め、諸国を流浪し京都で侍従鷲津隆聚の邸宅に坂本竜馬・田中顕助・藤村四郎・香川敬三らと共に時期を待ち、慶応3年(1967)鷲津隆聚が密勅を奉じて高野山に挙兵すると、これに従い監察に任じ、東三番隊長を務める。慶応4年(1868)4月朝命により帰藩し同年5月新政府出仕となる。内国事務局権判事となり、三河裁判所に勤務。その後武蔵国監察史、租税司判事、鉱山司知事を歴任。廃藩置県後山本速夫と改名。若松県大参事等を努める。のち、宮内省出仕。東伏見・山階・華頂の3宮家令。

墓は、乙9号19側。尾竹竹坡墓前。正面「山本家之墓」。没年が1874年の資料が殆どだが、墓誌は1869年(写真参照)なので、これに従った。生誕日は、碑に記述がある。しかし、享年は、碑も墓誌も50歳となっていて、計算が合わない。