横尾東作(よこおとうさく) 天保10年2月18日〜明治36年7月21日(1839-1903)
探検家。名、常綱。号、鳳兮。父、士族医家横尾常徳。仙台藩士。陸中加美郡下新田村出身。16歳で仙台に出、23歳で江戸に出て林学斎の門に入る。慶応元年(1865)藩命により横浜で英人ブラオンに英学を学び、明治元年(1868)「養賢堂」の英学教授。 戊辰戦争では佐幕派として、横浜に潜行し横浜の各国公使へ檄文を送り、各国が朝幕両軍に対して厳正中立を守ることを要請。このため、総督府は、500両の懸賞金をかけて探索したという。「北方政権」つまり輪王寺宮を東武皇帝として戴く列藩同盟政権こそ正義であるとする「列藩同盟趣意書」を携えた使節3名のうちの一人として、慶応4年(1868)に新潟から横浜に船で赴き、檄を11カ国公使にもたらす。のち、釈放。明治3年(1870)東京府少属。明治4年(1871)山東直砥と早稲田に「北杜社」を起こす。同年7月仙台で「辛未館」を起こして、英学を教える。のち神奈川県10等出仕。明治9年(1876)警視庁雇外国掛。明治14年(1881)警視属。明治16年(1883)警視庁記録課長。明治17年(1884)4等警視・同庁沿革史編纂委員長。明治18年(1885)「南洋公会」設立を訴え、植民による南進論を提唱。明治19年(1886)非職。明治20年(1887)時の逓信大臣榎本武揚に建白書を提出し、硫黄島探検航海に赴い、日本領土とする。南洋貿易会社「日本恒信社」を設立、足尾鉱毒被害の避難民とともに、南洋の開拓・貿易を企てる。明治32年(1899)再び南洋を航海する。"東洋のコロンブス"と呼ばれるが、その考えは空想的であった。明治36年(1903)小石川の冨田鐵之助邸で没する。65歳。著書:「童蒙教育間答」(シェルドン:訳本)・「南洋群島独案内」・「好音舎詩稿」。
墓は、乙4号4側。舗装通路から4基目、5側向き。正面「横尾東作之墓」。無縁撤去危惧墓。