吉田正春(よしだせいしゅん/よしだまさはる)    嘉永4年〜大正10年1月18日(1851-1921)

    日本人として初めてイラン(当時のペルシア)を訪れた「吉田正春使節団」団長。通称、源太郎。父、土佐参政吉田東洋(長男)。13歳のとき父が凶変に遭い死亡。母も亡くす。従兄後藤象二郎に育てられ、藩校「致遠館」に学ぶ。明治初年上京して英学を修める。司法省・外務省出仕、理事官となる。明治13年(1880)4月司法調査のため伊藤博文に随行し渡欧し、伊藤巳代治・平田東助・大倉組副社長横山孫一郎らと調査を全う。イランと日本の国交樹立の前提となる国情・商況調査のために日本から派遣された使節団団長となる。明治13年(1880)7月25日南部のペルシア湾岸の町プーシェフルを出発、ラクダに乗ってイラン高原を北上し、途中シーラーズ、イスファハーン、ペルセポリス遺跡などを経て9月10日に主都テヘランに到着しペルシャ国王に謁見、通商開始の許可を得る。明治14年(1881)2月12日イスタンブールに到着し12月30日まで滞在。この訪問は「回彊探検・波斯之旅」(1894)として報告された。なお、メンバーは参謀本部工兵大尉・古川宣誉(のぶよし)、大倉組商社副長横山孫一郎ら日本人商人5名、インド人通訳、ペルシャ人料理人、アフガン人従僕各1名。のち、法制局に転じ、明治15年(1882)伊藤博文について憲法取り調べのためプロシアを訪問。のち下野し後藤象次郎の参謀となり大同団結に奔走。晩年は中国に渡り親善に尽力。69歳。著書:我が国で初めてペルシャ事情を紹介した「回彊探検波斯之旅(かいきょうたんけんペルシャの旅)」。

墓は、甲8号5側。真辺戒作墓と並ぶ。正面「等正院明堂静海大居士/正覚院節道知貞大姉」。