真辺戒作(まなべかいさく)    嘉永元年3月26日〜明治12年5月20日(1848-1879)

    高知藩英国留学生団長。戊辰戦争時の部隊長。名、正精(まさよし)。別名、厳太郎。父、真辺勝亥正粋。高知出身。文久元(1861)年3月10日父が病死に伴い14歳で真辺家8代の家督を継ぐ。慶応元(1865)年板垣退助について江戸に出、慶応2年(1867)「学問修業」の藩命を受けるが、戊辰戦争が勃発し参戦。板垣退助のもとで部隊長を務め、会津戦争に参加した。明治2(1869)年9月東京藩邸の学校舎長。翌年馬場辰猪、国澤新九郎、深尾貝作、松井正水を率いて英国留学。明治11年(1878)留学先で馬場辰猪と決闘、馬場は真辺に傷を負わせ投獄、罰金刑執行猶予となる。このため帰国し高知に帰ったが、うつ病になり友人吉田正春宅を訪ね自殺した。32歳。

墓は、谷中霊園乙8号5側。正面「真辺戒作君之墓」。吉田正春墓に並ぶ。