吉村甚兵衛(よしむらじんべい)・9代    天保7年〜明治19年11月26日(1836-1886)

    明治時代前期の通信・運輸業者・内国通運会社(日本通運の前身)初代頭取。三都定飛脚問屋和泉屋9代当主。江戸出身。明治4年(1871)前島密により官営郵便が創業され、深刻な打撃を受けた。そこで旧定飛脚仲間と提携して、官営郵便と激しい競争をしたが、前島密や前島と実際に飛脚屋総代として交渉に当たった手代の佐々木荘助らの進言に従い、明治5年(1872)伝馬(てんま)所・助郷(すけごう)を廃止し、それに代わるものとして政府の援助を受け日本橋佐内町の泉屋邸内に陸運元会社を設立し頭取となった。その後、順調に取引網の拡大を続け明治8年(1875)2月内国通運会社と改名、三井組の独占だった鉄道貨物取扱業に新規参入。ちなみに、陸運元会社に加盟しなかった陸運会社は、政府により解散させられ独占を認められた。しかし、自由民権運動 の高まりや、 鉄道 の発展などもあり、政府は明治12年(1879)5月太政官布告で内国通運会社の独占を廃止した。吉村甚兵衛は明治14年(1881)8月まで社長を務めた。51歳。その後会社は、昭和3年(1928)国際通運株式会社として発足。昭和12年(1937)10月1日、日本通運株式会社法に基づき特殊会社として日本通運株式会社となる。昭和25年(1950)2月1日、日本通運株式会社法が廃止され、民間企業として再出発。同時に東京証券取引所に上場。

墓は、谷中霊園 甲11号6側。児童公園の角。写真中央の柱は墓誌になっていて、おびただしい数の一族の戒名・俗名・没年日が江戸時代前期から記録されている。初代は、明暦3年(1657)10月1日没とある。墓誌には、さらに以前のものが記録されているが、背が届かなくて読めない。2基あり、「吉村家之墓」と「吉村家累代之墓」だが、どのような区別かは不明。昭和初期に同時に再建された。