阿部正邦(あべまさくに)    万治元年5月21日〜正徳5年1月27日(1658-1715)

    岩規藩5代藩主・宮津藩主・宇都宮藩主・備後福山藩初代藩主。父、武蔵国岩槻藩阿部3代藩主阿部定高(二男)。父定高が死去時に嫡子である正邦が2歳であったため、叔父の阿部正春が岩規藩4代藩主に就任いた。のち、寛文11年(1671)12月19日正春は正邦に家督を譲り、正邦は14歳で岩槻藩5代藩主(9万9,000石)に就任。天和元年(1681)丹後国宮津藩へ転封され、元禄10年(1697)下野国宇都宮藩に転封。さらに、宝永7年(1710)備後国福山藩に転封され初代藩主となる。正邦は、福山へ入国するとすぐに当時の国勢調査ともいえる差出帳を提出させ、これを基に政治体制を確立させていった。また、郡奉行より「在在へ三十五ヶ条の条目」が下され、治安維持に努める。また郡代目付を新設し、藩内体制を整える。天領石見銀山手当を命ぜられ、幕府権力の一翼を担う。江戸にて死去。家督は子の阿部正福が継いだ。

墓地は、西福寺(台東区浅草)に葬られ、のち寛永寺谷中墓地(渋沢栄一墓横の石塀の中)に改葬。「長生院殿尋誉耀海踞岸大居士」。娘の晴岸院と正室の寶境院の墓碑は、瑞輪寺墓地にある。