阿部正福(あべまさよし/まさとみ)・2代藩主    元禄13年6月6日〜明和6年10月10日(1700-1769)

    備後福山藩2代藩主。父、阿部家福山藩初代藩主阿部正邦(4男)。正徳3年(1713)嗣子となり、将軍徳川家継に拝謁。正徳5年(1715)父正邦の死去により16歳で福山藩2代藩主となるが、藩財政は厳しく、全藩にわたり百姓一揆が蜂起していた。享保3年(1718)初国入り。享保4年(1719)朝鮮通信史来朝接待役。享保7年(1722)帰国にあたり、藩政安定を目標とする諸政策を提出、村役人の綱紀粛正・年貢賦課の公正・分地制限・結婚年齢制限令・土地の零細化防止・小農の農業経営維持等に努める。寛保2年(1742)大洪水で決壊した利根川の普請手伝い。延享2年(1745)正福は47歳で老中昇進一歩手前の大坂城代に就任し、阿部家が幕府中枢に登場する足がかりとしたが、延享4年(1747)病気のため大坂城代を辞任し、翌寛延元年(1748)11月19日に家督を嗣子阿部正右(まさすけ)に譲って隠居した。

墓地は、西福寺(台東区浅草)に葬られ、のち寛永寺谷中墓地に改葬。「徳輪院殿硯誉祐全寿山大居士」。