阿部正右(あべまさすけ)・3代藩主    享保9年11月29日〜明和6年7月12日(1725-1769)

    備後福山藩3代藩主。老中。父、2代藩主阿部正福(2男)。江戸藩邸で生まれる。寛延元年(1748)父正福の病気致仕により25歳で家督を譲られ備後福山藩3代藩主となる。しかし、藩主在任期間22年の間、18年間は幕府要職にあり、江戸または京都に住まい、幕政へ参画していて、国元の政治は、家老に委ねられた。宝暦2年(1752)奏者番、宝暦6年(1756)寺社奉行を兼任、宝暦10年(1760)には京都所司代に任じ、在任中天皇に拝すること4度、天盃その他の下賜品を賜ること5度に及び、とくに桃園天皇崩御と後桜町天皇の即位の大礼の行事には、幕府代表を務めた。明和元年(1764)西丸老中、そして盟和2年(1765)本丸老中に任じられる。明和6年(1769)に死去するまで老中を務めた。一方、藩政においては、藩札乱発により銀札の価値は暴落し、御用銀賦課に対する一揆が起こり、銀札の強制使用を撤回させる事件が起きた。藩内経済立て直しのため、木綿などの地場産業、商品作物への流通制を図り、運上銀の収入を得、さらに緊縮政策を実施する。また、明和2年(1765)に福山城下で大火があり、受難な時代もあった。正右死去後は3男の阿部正倫が跡を継いだ。

墓地は、西福寺(台東区浅草)に葬られ、のち寛永寺谷中墓地に改葬。「西閣院殿楼誉託方練契大居士 」。