備後福山藩4代藩主。老中。父、3代藩主阿部正右(3男)。明和6年(1769)兄2人が若くして没したため、父正右死去に伴い25歳で備後福山藩4代藩主となる。天明7年(1787)には老中に昇進。だが、わずか11ヶ月余で病気を理由に、また父正右が幕政に忙殺され藩政が行き届かなかったため藩の財政難は極限に達し、藩内が百姓一揆などで荒れていることもあり退任し、陣頭にたって藩政改革に専念した。はじめに藩政機構の粛正に当たり、家老以下重臣の「身勝手不正道」を吟味し、一方、藩士扶持米の減知を復し、藩主の仁政第一歩を踏み出している。藩主親政を志し財政改革・農村対策に精力を費やし、藩校「弘道館」を創立する。享和3年(1803)に家督を3男の阿部正精(まさきよ)に譲る。正倫は、阿部氏中もっとも長い在任期間をもつ藩主である。61歳。