安藤浩(あんどうひろし)     嘉永4年〜昭和7年2月12日(1851-1932)

    東京芝の「紅葉館」社長。父、山梨県出身の安藤太蔵(二男)。明治10年(1877)第三銀行に入行。明治11年(1878)横浜支店支配人心得、のち独立して織物業に進むが失敗。川崎銀行頭取の川崎八右衛門の支援で、明治15年(1882)川崎銀行水戸支店主任。明治17年(1884)本店支配人・営業部長。以来、勤続30有余年ののち、同行顧問。他に、「紅葉館」社長・東京商業倉庫・日本火災保険会社・第百銀行各取締役。82歳。
※ 明治14年(1881)2月に芝の紅葉山に建てられた会員制の超高級料亭「紅葉館」は、明治の代表的な和風社交場として知られ、政財界文人の社交場であった。西洋風のきらびやかな社交場である鹿鳴館とならび称されていた。鹿鳴館は、洋式で西洋の舞踏などが主で、あまり馴染めず、わずか7年でその役目を終えている。一方、「紅葉館」は万事みやびな和風で中庭には見事な庭園があり庭内には、渓流、滝、築山がしつらえてあった。昭和20年(1945)の大空襲で焼失。現在この「紅葉館」の跡地には東京タワーがそびえ建つ。この「紅葉館」の女中の中から後に、伊藤博文夫人となる「おすま」や川上音次郎の妻で女優一号になった「貞奴」がいた。また、尾崎紅葉を筆頭に硯友社の文士たちも出入りし、尾崎紅葉は、自分のペンネームに使った。明治最大の小説、尾崎紅葉著「金色夜叉」の主人公の鴫沢宮(しぎさわみや)は、この紅葉館の女中の中村須磨がモデルになっている。(芝紅葉館と光子HPより)。

墓は、谷中霊園 乙10号10側。正面「安藤浩墓」。「梅芳院浩然道徹大居士」。