青山胤通(あおやまたねみち) 安政6年5月15日〜大正6年12月23日(1859-1917)
医者・男爵。父、美濃中津川苗木藩藩士青山景通(三男)。江戸麻布の屋敷で生まれる。岐阜県中津川市出身。5歳のとき中津川に両親と移る。11歳のとき本所柳島の国学者平田信胤の養子となり、胤道を名のる。2年後に養父が没すると青山姓に復し、中津川に帰る。14歳のとき再度上京し、壬申義塾、進文学舎に学んだ後、明治6年(1873)大学東校(のち医科大学)に入学。明治15年(1882)東京大学医学部を卒業後、医学部病理教室にてベルツ教授の助手を勤める。明治16年(1883)ベルツ教授の推挙によりベルリン大学に留学し、帰途フランスにおいてもシャルコーに学ぶ。明治20年(1887)8月帰国し医科大学教授。明治25年(1892)医科大学付属医院長。明治27年(1894)南清国各地にペストが流行し、その研究に派遣されるも罹病し、数日間の危篤の状態になる。明治34年(1901)日本の臨床医学を確立し、明治34年(1901)東京帝国大学医科大学長。明治36年(1903)ドイツ・オーストリア・フランス・スイス・ロシア・イギリス・アメリカを歴訪、明治37年(1904)4月に帰国。明治40年(1907)桂太郎を総裁に、渋沢栄一を副総裁に癌研究会を発足させる。明治45年(1912)明治天皇崩御に際して、その拝診を仰せつかる。内科医師の立場からペスト・脚気などの治療に取り組み、明治・大正にわたって、日本医学界の発展と改革に努めた。しかし、「脚気」の原因について東大の威光を背に最後まで伝染病説を主張したが、やがてビタミンB1が発見され後輩である島薗順次郎にビタミン欠乏症であることを証明されるにいたり敗北するという東大権威主義の一面もあった。大正4年(1915)所轄が内務省から文部省に替わった折に北里柴三郎に代わって伝染病研究所所長となる。
辞世:「千万の責をはたさで消えん身は心苦しきものにぞありける」。
青山徹蔵(あおやまてつぞう) 明治15年〜昭和28年1月10日(1882-1953)
外科医。父、医師熊谷陸蔵(二男)。長野県出身。医学博士熊谷岱蔵の弟。医学博士熊谷直樹の兄。青山胤通の娘芳子と結婚し青山姓を名乗る。東京大学卒業。明治40年(1907)泉橋慈善病院外科医長。東京大学講師。大正5年(1916)「胆石形成に関する実験的研究」論文により医学博士の学位を受ける。大正8年(1919)東大外科学助教授。大正14年(1925)外科学第1講座教授。外国留学後、昭和11年(1936)視力障害を患い東京大学を依願退職。従三位勲三等。著書:「小外科総論」。70歳。
※ 故人歴情報は、森光俊さまのご提供による。
墓は、寛永寺谷中墓地。桜木2丁目(言問通り)側桜並木道から北に向かって霊園に入り、乙11号1側の裏手を右に折れた突き当たり。正面「青山胤通之墓」。
弟の青山直道墓は、染井霊園にある。また、実父青山景通墓は、文京区本駒込の蓮光寺にある(H.Nもへい様情報)。
胸像が東京大学本郷キャンパスにある。竜岡門から入り、病院・管理棟を背にして木立の中に置かれている。道路から見えにくい。パーキングマン小屋横から繁みを入る。