島薗順次郎(しまぞのじゅんじろう)    明治10年〜昭和12年4月27日(1877-1937)

    脚気がビタミン欠乏症であることを発見・証明した医師。父、須藤暢(二男)。島薗恒斎の養子。和歌山県出身。明治38年(1905)東京帝国大学医科卒業後、陸軍二等軍底として日露戦争に従軍し、特に脚気患者の診療に従事。明治44年(1911)ドイツ留学し、神経病理学の権威エジンゲルに師事。帰国後、明治13年(1880)岡山医学専門学校(岡山大学医学部の前身)教授兼岡山県立病院副医院長、医学博士、京都帝国大学医科大学医学部内科学教授。大正5年(1916-1924)東京帝国大学医学部教授。昭和4年(1929)我が国初の交換教授として1年間ドイツに派遣されベルリン大学で講義。昭和8年(1933)東京大学付属病院長。昭和12年(1937)定年退官し東京大学名誉教授。当時の教授青山胤通が伝染病説をとっていた脚気がビタミン欠乏症であることを発見・証明した業績を残した。61歳。正三位勲二等旭日重光章。順次郎の長女・正子は地球物理学者・坪井忠二に嫁いだが、坪井の母・直子は箕作秋坪の長女。

島薗順雄(しまそののりお)     明治39年3月16日〜平成4年12月5日(1906-1992)

     東京大学医学部名誉教授 (生化学)。父、島薗順次郎(長男)。東京出身。東京帝国大学卒業。東京大学生化学教室勤務。昭和27年(1952)東京大学教授。昭和39年(1964)医学部長。ビタミンの研究者で、日本ビタミン学会賞・日本栄養食糧学会賞などを受賞。日本生化学会会長。86歳。妻照子は、三宅鉱一の娘。著書:「栄養学の歴史」、「特殊栄養学」など、共著もある。

島薗安雄(しまぞのやすお)     大正9年7月30日〜平成9年4月9日(1920-1997)

     精神神経学者。昭和18年(1943)東京帝国大学医学部医学科卒。昭和31年(1956)東京大学助教授。昭和34年(1959)金沢大学教授。昭和43年(1968)東京医科歯科大学教授。昭和57年(1982)国立武蔵療養所長。昭和61年(1986)武蔵療養所と精神衛生研究所が統合して発足した国立精神・神経センター初代総長に就任。のち名誉総長。平成元年(1989)日本精神衛生会理事長。神経研究所理事長・所長。第13〜15期日本学術会議会員。平成3年(1991)てんかん治療研究振興財団研究功労賞。76歳。

墓は、谷中霊園甲10号2側。ぎんなん通りより見える。正面「島薗家之墓」。順次郎:「光闡院殿誠誉正順義道大居士」。肖像は、東京大学医学図書館にある。順雄:「光道院殿浄誉敬山順教大居士」。安雄:「仁徳院学誉秀道浄安居士」。