浅田宗伯(あさだそうはく) 文化12年5月〜明治27年3月16日(1815-1894)
医学者・浅田飴の元祖。幼名を直民、のち惟常。字、識此、通称、宗伯。号、栗園。祖父東斎、父済庵も医家。信州筑摩郡栗林村(松本市島立)出身。15歳で高遠藩(長野県上伊那郡高遠町)の藩医中村仲棕の門下となるが1年余りで京都の中西深斎(1729-1803)の塾入りし古方(漢方医学の古医方)を学ぶ。また、史学を頼山陽(1780-1832)に学ぶ。天保4年(1836)22歳で江戸に医業を開業。剃髪して宗伯と称する。安政2年(1855)幕府医官本康宗円により諸家に紹介され幕府のお目見得医(将軍に直接会える医者)となる。医が学(理論)と術(臨床)に分かれている西洋医学を激しく批判。文久元年(1861)十四代将軍家茂に謁見し藩より抜擢され登用され、幕府侍医法眼に叙せらる。慶応元年(1865)西洋医学で治せなかったフランス公使レオン ロッシュのリウマチを治し、フランス皇帝から褒章を贈られる。このとき横浜のフランス公使館付騎兵が2名毎日煎じ薬を取りに来るので、見物人で黒山の人だかりとなったという。慶応2年(1866)法眼の位を授けられる。維新の際には、和宮と天璋院の侍医となり、密書を有栖川宮熾仁親王や西郷高盛に届ける役をした。時事を論じ川路聖謨・小栗上野介らと交流。明治12年(1879)後の大正天皇の明宮の危篤を救い日本の大功労者となった。明治14年(1881)漢方存続運動の結社「温知社」の二代目社主となる。81歳。著書:「先哲医話」、「杏林風月」、「皇国名医伝」など。
※ 「医者は数の観念に乏しい方がよろしい」といって、九九もままらなかったという。また、「余には被風(コート)を掛け、伝家の名刀を握らせ、第二世不動尊として葬ってくれるならそれで満足だ。葬儀は質素にせよ。死後三日から、いつものように貧民に施療せよ」と言い遺し、「愉快だ壮快だ」と言って大往生したという。
墓は、谷中霊園 乙8号10側。ひょうたん横丁から30m辺り。大きな木の陰になっていて暗く、巨岩の上に恐い顔の不動尊が護衛をしていて、少しおどろおどろしい。正面「栗園浅田宗伯先生之墓」。娘"くら"の婿養子浅田宗叔(天保8年10月2日〜明治30年6月18日)墓は、乙7号9側(通路角の内側)にある。正面「棕園浅田宗叔墓」。