坊城俊章(ぼうじょうとしあき)    弘化4年1月24日〜明治39年6月23日(1847-1906)

    松山藩大手門を残した軍人・伯爵。22代坊城家当主。父、21代坊城俊政(としただ)。祖父、20代坊城俊克。嘉永5年(1852)叙爵。安政4年(1857)従五位上。元治元年(1864)17歳で朝廷に仕え侍従となる。慶応4年(1868)2月参与となり、弁事・外国事務局権輔を兼務。6月三等陸軍将に転じ、8月旧幕府艦隊の襲来に備え、摂泉防禦総督となり、大阪警備に当たる。維新後、明治2年(1869)奥羽按察使(あぜち:施政や民情を巡回視察した)を命ぜられる。明治3年(1870)酒田藩が廃され山形県が置かれると、初代山形県知事を務め、明治政府でも軍務につき戦後処理をした。明治4年(1871)岩倉使節団のついてドイツなどを遊学。明治7年(1874)7月帰国。陸軍中尉となり、陸軍戸山学校教官を勤める。明治10年(1877)西南戦争に出征、大尉に昇進。その後、近衛都督伝令使となり、日清戦争では大隊長少佐として従軍。日清戦争後の10年間は貴族院議員を務めた。最終階級は中佐。従二位勲三等瑞宝章。60歳。

※ 山形の弱小藩である松山藩は、天明2年(1782)大手門を完成したが、8年後に落雷により消失、酒田の本間家の寄付で2年後に再建する。しかし、戊辰戦争で敗北し、城は取り壊されたが、按察使・坊城俊章らの計らいにより保存された。この話は、大手門に関わる逸話として残っている。

※ 3男伯爵坊城俊徳を生んだのは、坊城溝尋(判事杉浦文太郎の妹:1867-?)であるが、秀子(1938没)は俊章より後で没していることから、先妻か妾と思われる。俊徳の後は、坊城俊良が継ぐ。

墓は、谷中霊園乙12号8側。乙11号9側標識の通り向かい。正面「伯爵坊城俊章/室 秀子 墓」。