江木千之(えぎかずゆき) 嘉永6年4月14日〜昭和7年8月22日(1853-1932)
文部大臣。幼名、吉太郎のち千之。号、狂塢。父、岩国藩士江木俊敬(長男)。藩儒に学び武芸にも励む。父を早くに亡くし、母絲子に育てられ、13歳で家督を継ぐ。慶応2年(1866)幕府軍が迫ると硝石製造などを手伝う。明治元年(1868)裁判所に入り見習書記官となる。明治3年(1870)藩命により大阪開成校に入り、原田一道に師事し、銃砲製造・数学・語学を学ぶ。明治5年(1872)東京芝増上寺本坊に開校した開拓使仮学校(北大の前身)の最初の生徒であったが中退し、大学南校・工部大学などで学び、また、外人教官に法律・経済・史学などを学ぶ。明治7年(1874)文部省出仕。論客として知られ、「小学教員心得」、「同教則綱領」を起稿。明治25年(1892)内務省に転じ、「日韓連合」、「帝国憲法草案」、「占領地規則」などを起草。明治29年(1896)茨城県知事のち栃木県知事・愛知県知事・広島県知事・熊本県知事。明治37年(1904)貴族院議員。大正13年(1924)清浦奎吾内閣の文部大臣・枢密院顧問官。錦鶏間祗候。80歳。弟に江木衷がいる。養嗣子の江木翼(たすく)は、司法相・鉄道相だが、墓は青山霊園警視庁墓地にある。
墓は、谷中霊園乙10号21側。正面「枢密院顧問官江木千之墓/室 中子墓」。青山霊園警視庁墓地に改葬。