江木哀(えぎまこと/えぎちゅう)    安政5年9月19日〜大正14年4月8日(1858-1925)

    弁護士。号、冷灰。父、岩国藩士江木俊敬(二男)。岩国学校(現在岩国資料館のところ)で英国人教師Herbert Augustus Stevens(1847-1878)に学ぶ。明治17年(1884)東京大学を卒業し警視庁に入り、司法・外務・農商務各省を歴任。かたわら明治18年(1885)英吉利法律学校(中央大学)を東京府神田錦町に設立した一人で教鞭も執る。他に増島六一郎、穂積陳重高橋一勝などがいる。フランス民法がもてはやされた中で、これを批判し「刑法汎論」を刊行。明治21年(1888)農商務大臣井上馨の秘書官、のち外務省に移り、大隈重信の条約改正案に反対。明治24年(1891)内務大臣品川弥二郎の秘書官。明治26年(1893)退官し、弁護士を開業。明治32年(1899)法学博士。東京弁護士会会長。大正8年(1919)臨時法制審議会委員。翌年陪審法調査会委員。また、森槐南・本田種竹らと漢詩の「一詩社」をつくり詩集「冷灰漫筆」、「山窓夜話」などで政治批判をした。号の「冷灰」は、漢詩にも才があり、この為のものである。また、ヘビースモーカーでもあった。兄に江木千之がいる。著書:「法律解釈学(博文館)」など。

江木欣々(えぎきんきん)/江木栄子(えぎえいこ)     明治12年1月30日〜昭和5年2月20日(1879-1930)

     東京新橋の芸者で、結婚後は社交界で名を知られた。父、大審院判事・愛媛県令の関新平(二女)。母は妾の藤谷花子。中島歌子の門人。才色兼備な才芸夫人で、書画・豪刻・漢詩・謡曲・乗馬を得意とした。一を聞いて十を知る明に加えて美貌の人であった。漢詩を岩渓裳川・永坂石塘・結城蓄堂に、豪刻を河合仙郎に、文章を新田雲処に学ぶ。また、武道を中山博道に師事する。生後1年ほどで里子に出され、さらに別の家に貰われて行き、ここで諸芸を習う。養父没後に神田講武所の花町で半玉となる。のち、細川家の家老有吉男に身請けされ一時男爵夫人となる。しかし、夫に先立たれ、新橋の花柳界に戻る。ここで江木衷と出会う。生活はリッチとなり、社交界にデビューする。江木衷の没後は、牛込納戸町の自宅で、夫の冥福を祈り尼僧のように暮らしていたという。病弱となりまた精神的に疲れていたため大坂の里家の実弟(異父)早川徳次が静養のため呼び寄せていたが徳次の家で自殺した。52歳。「青鞜社」のメンバーでもあった。母の藤谷花子は、早川政吉と結婚し、子の早川徳次は、シャープペンシルの発明者。異母妹に江木ませ子がいる。

墓は、寛永寺谷中霊園。乙8号11側裏(線路側)付近。清水徳川家墓域前。正面「冷灰江木先生之墓」。江木欣々墓は、隣りにあり、正面「江木栄子墓」。