富士松加賀太夫(ふじまつかがたゆう)・5代    安政2年〜明治25年12月10日(1855-1892)

    新内浄瑠璃作家。本名、野中富士松。父、初代富士松魯中(二男または三男)。江戸出身。7歳で父に死なれ、父の門弟の初代富士松紫朝に師事。富士太夫・歌賀太夫を経て明治13年(1880)5月5代目加賀太夫を襲名。兄の島太夫(2代目富士松魯中:6代目加賀太夫)は無頼で、諸国を流浪してから舞い戻り、魯中を自称して横暴を究める。加賀太夫は、心労のあまり浅草の自宅で没する。新曲に無関心の時代に「しんらん上人」、「高橋お伝」、「花井お梅」を作る。38歳。没後、兄が6代目加賀太夫を襲名。

墓は、蓮華寺墓地(谷中4-3-1)。山門を入り塀際の右隅。正面「富士松加賀太夫之墓」。「梅香院清月日透居士」。