芳賀厚太郎(はがあつたろう)     安政2年〜明治12年8月22日(1855-1879)

    内務省駅逓局1等属。名、厚太郎。幼名、鉄一郎。号、徳逸・可伝。静岡県出身。芳賀入道禅可の後裔。芹沢随軒に聰慧学び神童といわれる。開成所、沼津兵学校第1期資業生。静岡学校理化学教師。駅逸寮10等出仕。フランス語に堪能で国際郵便の黎明期に活動するも夭折。25歳。妻、千代は、成沢知行の妹で、その後、千代が再婚した相手が「羽賀」姓を継ぎ、「羽賀勝貞」を名乗る。前島密篆額「芳賀君墓碑銘」、中村正直撰文、小尾輔明書の碑が建つ。

芳賀権四郎(はがごんしろう)     慶応3年〜昭和23年3月11日(1867-1948)

     蚕糸業発展の功労者。父、岡部藩士春名周輔(四男)。埼玉県出身。幼少に芳賀家の伊代子の養子となる。明治25年(1892)東京帝国大学農科大学(東京大学農学部)を卒業し、秋田県農業技師。日清戦争に召集され、のち農商務省技手。明治30年(1897)家督相続。明治32年(1899)農商務省製糸検査場技師。日露戦争召集され陸軍歩兵中尉、のち中隊長。除隊後、明治42年(1909)農商務省蚕糸課長。、明治44年(1911)の「蚕糸業法」の制定に尽力。大正8年(1919)に生糸検査所長兼絹業試験所長。昭和2年(1927)の「輸出生糸検査法」制定に尽力し、一貫して品質向上と国際的信用向上のため献身的な努力をした。昭和11年(1936)退官、正三位勲一等瑞宝章。夫人てつ子は、芳賀勝貞の長女。3男1女がいる。82歳。

芳賀四郎(はがしろう)     明治44年〜昭和56年5月1日(1911-1981)

     父は、権四郎と思われるが、委細不詳。ハイデルベルグ市にて客死。正四等勲三等。71歳。

墓は、谷中霊園 甲8号16側。正面「芳賀氏累世之墓」。