成沢知行(なるさわともゆき)     嘉永元年〜昭和4年10月25日(1848-1929)

    陸軍工兵中佐。父、成沢良作(知恒)。下谷西町(東上野)出身。幕府直参旗本成沢家7世当主。元服後英語を学び、開成所英学世話心得などを務める。ジャーナリストを志し、柳河春三主筆の「中外新聞」に旧名「甚平」で執筆。明治初年父良作・弟ユとともに沼津に住み沼津兵学校(第2期資業生)に学ぶが廃藩後廃校となり、東京に移る。明治24年(1891)頃 臨時砲台建築部事務官。明治28年(1895)頃第2軍兵站電信部提理。同年 勲三等旭日章受章。明治34年(1901)頃退役。晩年は、関東大震災で下谷西町の自宅が焼失後、小石川に移り自適に過ごす。82歳。

※ 妻寿々、小田氏、大正元年8月22日歿。

※ 姉佐多は、渡部温と結婚。明治37年2月21日歿、62歳。

※ 姉照子は、山口家に嫁ぐも死亡し、弟ユ夫婦が山口家に夫婦養子となる。山口ユ歿後、実子なく、成沢知行の長女鶴代が山口ユの養女となる。

※ 弟、山口ユ

※ 妹芳賀千代は、沼津兵学校第1期資業生羽賀可伝(芳賀厚太郎)に嫁ぐ。

※ 二女米田みねは、特許局に勤め、「亀の子たわし」の特許を認めたことで知られる米田英夫(父、米田斧橘)に嫁ぐ。のち、日本基督教団四谷新生教会執事。米田英夫の妹わかは(昭和47年10月23日歿)は、成沢知行の長男成沢知一と結婚。ややこしい関係となる。みね と わかはは、麹町の女子学院英語科で鳩山薫と同窓。知一(ともいち:昭和19年4月4日歿、61歳)は、成沢家8世当主で、東京製綱勤務。知一の長男は、知雄(平成9年9月9日歿、84歳)。長女、えい(平成10年1月23日歿、87歳)。

※ 二男成沢知次(明治17年〜?)は、明治38年(1906)陸軍士官学校を卒業し陸軍中佐となる。職位は第十四軍宣伝部宗教班長。太平洋戦争中に、徳川頼貞侯爵の下で今日出海・田口芳五郎(カトリック司教)らとフィリピンでのキリスト教と音楽に関する宣撫活動に従事した。

※ 三男沼田啓有(ぬまたよしなお)は、岡谷電機社長。

※ 五女寿、大正2年7月7日歿、26歳。

墓は、谷中霊園 乙1号2側。正面「成澤家歴代之墓標」。