萩原三圭(はぎわらさんけい) 天保11年11月11日〜明治27年1月14日(1840-1894)
日本人最初のドイツ留学生・医師。名、守教。号、衆堂。父、土佐藩侍医萩原復斎。土佐藩出身。はじめ同藩の細川潤次郎に蘭学を学び、のち大阪にて緒方洪庵の「適々斎塾」でオランダ医学を学ぶ。自ら藩に請願し長崎で医学校に入り、マンスヘルド・ボードインらの蘭医を修得。慶応のはじめ幕府が医学校および病院を長崎に設立し、全国から集まった医学生を指導すると、藩に要請し長崎に留学。オランダ医学をボ−ドウィンやマンスフェルドに学ぶ。長崎留学医学生時に藩費留学から国費留学に切り替えられ、明治2年(1869)青木周蔵とドイツライプチヒ大学留学(日本人最初のドイツ留学)。文部理事官の田中不二麿が東京に大学を設立するために、デーニッツ博士らを招聘、世話役として明治6年(1873)ドイツ人医師デーニッツと共に帰国。明治7年(1874)東京医学校教授となるが、間もなく故有り職を辞し、京都に移り、明治12年〜明治14年(1879-1881)京都府療病院内に医学校と医学予備校を設けたとき初代校長となる。東京に戻り、旧山内藩の侍医となり、その子の病を治癒し、その褒美としてドイツ留学を許される。明治17年〜明治19年(1884-1886)森鴎外らと2度目の留学。ライプチッヒ大学で医学全科を研究、明治19年(1886)ドクトルの称号を得る。明治20年(1887)久宮の病気治療のため宮中侍医局勤務。明治21年(1888)同侍医、奏任四等上。傍ら、民間救世に従事し小児科を開く。東京医会麹町部会副会長。医術開業試験委員。心臓内膜炎で没する。55歳。
※ 萩原復斎(はぎわらふくさい:1804-1879)の娘、龠(やく)は、三圭と兄妹であるが、板垣退助の妾で、退助の二男乾正士(いぬいせいし:慶応4年3月25日〜昭和16年6月18日)を生む。退助の嫡子板垣鉾太郎より2ヶ月早く出生したが、庶長子のため二男として育てられ、分家の乾市郎平正厚の養嗣子とされるが、まだ幼かったため退助の家で育てられた。
墓は、谷中霊園乙3号15側。正面「故侍医萩原三圭之墓」。2007年には撤去済みとなっていた。萩原復斎墓も同じ場所にあったという記録があるが、同時に撤去されたようだ。