春木義彰(はるきよしあき) 弘化3年1月1日〜明治37年12月17日(1846-1904)
大審院検事総長・法律家・政治家。通称、雄吉。奈良県出身。文久4年(1864)師である判林光平(ともばやしみつひら:1813-1864)が、「天誅の変」により京都で斬首刑となったことに憤慨し、遺志を継いで王事に尽くし、慶応元年(1865)京都に赴き7卿の太宰府落ちに従おうとし、また、北畠治房に九州で会おうとする。慶応3年(1867)鷲尾隆聚(わしのおたかつむ:1843-1912)が高野山で挙兵すると、尾崎秀氏らと大阪で軍資調達と京阪視察に当たる。明治元年(1868)旧幕隊が鳥羽伏見両道より入京すると、紀伊見峠で脱兵らと戦う。のち、錦旗奉行・総軍兵糧奉行となり、錦旗を江戸城へ護送。奥羽追討に従軍し、平定後京都に戻る。明治2年(1869)兵部省の命令で十津川郷土の説論に当たる。五条県が設置されると知事鷲尾隆聚を補佐して赴任し、五条県権少属。のち奈良県に異動し、明治6年(1873)司法権少検事。明治25年(1892)検事総長。明治36年(1903)東京控訴院長。明治37年(1904)貴院議員。59歳。子にローマ法研究者春木一郎がいる。四女まき子は、渡部康三に嫁す。
墓は、乙5号1側。ブロック中程。春木一郎と同一場所。正面「従二位勲二等春木義彰之墓」。