日尾荊山(ひおけいざん)    寛政元年6月15日〜安政6年8月12日(1789-1859)

    漢学者。本姓、魚澄氏。名、政寛・璞・瑜。字は得衆・葆光・徳光。通称、多門・宗右衛門。号、恭斎・荊山・至誠堂・善司・直麿・呉竹堂主人等。父、医家日尾林庵。日尾(埼玉県小鹿野町大字日尾)出身。3歳で父母を相次いで亡くし、加藤重矩に養われる。手習師匠加藤見龍に師事し、15歳で太田部村の手習師匠となった。江戸で儒学者亀田鵬斎(1752-1826)に師事し儒学を学び、清水浜臣(1776-1824)に国学を学ぶ。実践は至誠に通じるとして神田に「至誠堂」を開設。日尾点と称する独特な漢文の読み方・解釈を考案し、多くの門人を育てた。71歳。継室に日尾邦子、子に日尾直子がいる。71歳。著書:口出糞病の話で知られる「燕居雑話」、世諺問答考證など数多い。他に「管仲非仁者弁」、「四書折衷弁断」など。

墓地は、谷中4 本通寺。墓地最奥。中央の墓石。正面はかろうじて「荊山日尾之墓」と読める。向かって左は本妻、右は継妻。先妻との娘直子墓は、右側塀寄りにある。また碑が修性院(西日暮里3-7-12)墓地にある。