弘田龍太郎(ひろたりゅうたろう) 明治25年6月30日〜昭和27年11月17日(1892-1952)
作曲家。高知県安芸市土居出身。父、教育者弘田正郎。母、総野は一絃琴の名手。3歳のとき高知を離れ、千葉師範学校付属小学校、三重県立第一中学校を卒業。明治43年(1910)東京音楽学校(東京芸術大学)器学部ピアノ科に入学。
在学中に童謡「鯉のぼり」や歌曲「昼」を作曲。大正3年(1914)卒業、11月高安ゆり子(詩人、高安月郊の長女)と結婚。卒業と同時に母校の助手を勤める。大正6年(1917)に作曲部が新設されると再入学。修了後は、同校講師、助教授となる。このころ宮城道雄を中心とした新日本音楽運動に参加し、琴三味線を主体の舞踊界に洋楽の伴奏を取り入れた。また、舞踊家の若柳吉三郎(初代)に「柳」・「姥捨山」・「雪の幻想」を、歌舞伎の尾上菊五郎(6代目)に「生贄」・「刺客」を作曲、振り付けも指導した。その後、北原白秋を中心とした童謡運動「赤い鳥運動」に参加。大正12年(1923)までの5年間ほどの間に「靴が鳴る」、「浜千鳥」、「叱られて」、「雀の学校」、「春よ来い」などの名曲を作曲。昭和3年(1928)文部省在外研究員として、ベルリン大学で作曲とピアノを研究。帰国後、昭和4年(1929)東京音楽学校助教授となるが、2ヶ月で辞任。その後は作曲に専任し、歌曲「千曲川旅情のうた」・仏教音楽「仏陀三部作」・オペラ「西浦の神」などを発表。昭和25年(1959)日本大学芸術学科教授となる。晩年は、幼児教育に携わる。その他の作品:「キューピーさん」、「きんぎょの昼寝」、「あさね」、「あした」、「雨」、「えんそく」、「おうち忘れて」、「おち葉のおどり」、「お山のお猿」、「秋」、「鈴蘭」、「千曲川旅情の歌」など多数。60歳
墓は、全生庵(谷中5-4-7)。本堂裏あたり。墓脇に「叱られて」の楽譜がある。正面「弘田家之墓」。「龍光院殿雲厳宗吟居士」。