入沢達吉(いりさわたつきち) 元治2年1月5日〜昭和13年11月8日(1865-1938)
明治期の医者・東大名誉教授。号、雲荘。父、越後溝口藩医入沢恭平(長男)。池田謙斎の甥。南蒲原郡中之島町(新潟県見附市今町)出身。明治9年(1876)12歳で叔父池田謙斎の勧めで上京。翌年東京大学医学部予科予備4級に合格。明治22年(1889)東京帝国大学医科大学卒業。エルウィン ベルツの助手を勤める。翌年自費のドイツ留学にてシュトラスブルグ大学・ベルリン大学で内科・生理・病理学を学び、明治27年(1894)帰国後、内務省侍医局勤務。東宮(大正天皇)付きとなるも3カ月で辞職。日本橋に内科診療所を開設。医術開業試験委員。済生学舎講師。明治28年(1895)東京帝国大学医科大学助教授。明治30年(1897)東京養育院医長。駒込病院医長。足尾銅山鉱毒事件調査委員。明治32年(1899)学位受領。明治34年(1901)東大医学部教授。大正10年(1921)同付属病院院長。脚気や十二指腸虫の感染経路の追究、レントゲン診断学応用、 血色素測定法など内科学全般の研究をした。大正13年(1924)大正天皇のための宮内省侍医頭。大正14年(1925)東京帝国大学名誉教授。大正15年(1926)ドイツフライブルグ大学名誉学位。昭和2年(1927)正二位勲一等瑞宝章受章。昭和11年(1936)ドイツハイデルベルグ大学名誉学位。出身地の入沢公園に胸像がある。腎盂炎につづき脳溢血を起す。74歳。著書:医の傍ら誌文をよくし「雲荘随筆」・「楓萩集」を著わす。すこぶる座談に巧みで「入沢先生の演説と文章」を著わす。
中牟田常子(なかむたつねこ)/入沢常子(いりさわつねこ) 明治12年5月〜昭和29年7月17日(1879-1954)
歌人。父、子爵で海軍中将の中牟田倉之助。明治22年(1889)中島歌子の歌塾「萩の舎」に最年少で入門。歌塾の師範代の樋口一葉と田中みの子の指導を受けた。明治31年(1898)入沢達吉と結婚。
墓は、谷中霊園乙7号甲1側。正面「入沢達吉之墓」。