池田謙斎(いけだけんさい)    天保12年11月1日〜大正7年4月某日(1841-1918)

    医学博士第一号・男爵。本姓、入沢秀之/入沢圭助。父、越後長岡藩士入沢健蔵(二男)。兄、入沢恭平(入沢達吉の父)。越後(新潟県南蒲原郡中之島町)出身。土生玄生の塾にいた兄を頼って上京したが、尊王攘夷論の影響を受け、剣客伊庭軍兵衛の道場に入門、傍ら漢学を学ぶ。攘夷を果たすには外国語を学ぶ必要を感じ、文久2年(1862)旗本竹垣龍太郎の勧めで蘭学を学び始める。たまたま竹垣の隣りに緒方洪庵が上京して居をかまえたので、竹垣は、入沢に蘭学を教えてくれるよう頼むが、なら医学所に入れと言われ、医学を学ぶつもりもないのに、文久2年(1862)西洋医学所(旧種痘所)に入学。伊東玄朴は多仲を幕府奥医師に抜擢しておいて緒方洪庵の留守居役に任じ、診療のみならず管理・運営をさせた。元治元年(1864)緒方洪庵の未亡人の勧めで池田玄仲(多仲)の養嗣子となる。これで経済的に長崎留学が可能となり「精得館」でボードインに師事。慶応4年(1868)政変により上海経由で江戸に戻る。明治に入って負傷兵の治療にあたる。明治3年(1870)ドイツの医科大学に留学。留学中に医療行政の基盤である「医制」七十六条の構想を練る。また、最優秀学生賞を受賞して卒業。明治9年(1876)帰国し、陸軍軍医監・三等侍医・東洋医学校を経て、明治10年(1877)東京医学校が東京大学医学部と改称された初代綜理(明治10年〜明治14年:1877-1881)となる。明治20年(1887)日本薬局方編集委員。明治21年(1888)実質的な医学博士第一号となる。なお、同時に橋本綱常、三宅秀、高木兼寛、大沢謙二らも医学博士になった。明治28年(1895)旧「勲一等瑞宝章」の受章。明治35年(1902)宮中顧問官。日本最初の医学博士、陸軍一等軍医正、明治天皇侍医局長、宮中顧問官などの功績により明治31年(1898)男爵となる。78歳。

墓は、寛永寺谷中霊園。谷中霊園標識乙11号5側から入り最奥。正面「男爵池田謙斎墓」。青山胤通墓側からは、裏手に回る。墓域には、甥(兄入沢恭平の長男)にあたる入沢達吉が奉納した灯篭両基がある。また、墓碑周りの略歴も入沢達吉の撰。

※ 歿日には、諸説あるが、墓誌では"某日"とある。