池田玄仲(いけだげんちゅう)/池田多仲(いけだたちゅう)    文政3年2月13日〜明治5年8月17日(1820-1872)

    幕府奥医者。名、秀真・多仲。父、津和野藩医池田淳作(長男)。山口津和野出身。19歳で家督を異母兄弟に譲り江戸に出て、伊東玄朴に蘭医学を学び、日本橋石町で開業。のち火災に遭い神田三河町に移り医業を続ける。藩命により長崎に留学。蘭医ボードウィンについて西洋医学を修める。安政5年(1858)伊藤玄朴・大槻俊斎らとお玉が池種痘所を設立。文久2年(1862)閏8月7日幕府寄合医師。幕府医学所頭取補助。元治元年(1864)奥詰医師。慶応4年(1868)6月寄合医師にもどり、翌年12月隠居。入沢謙輔(のちの池田謙斎)を養嗣子とする。温厚な人柄で他人との争いを嫌ったという。53歳

※ この当時の医学所の代表的教授には、坪井芳洲・島村鼎甫・伊東玄朴の養子の伊東貫斎・竹内玄同・戸塚静海・頭取補佐の池田多仲である。

墓は、寛永寺谷中墓地。乙11号5側の奥。正面「池田玄仲先生墓」。