戸塚静海(とつかせいかい)    寛政11年〜明治9年1月29日(1799-1876)

    幕末の蘭方医。名、春輔・維泰。字、藻徳。通称、亮斎。号、春山・静春院・杏春院。父、掛川藩医戸塚培翁(戸塚隆珀)(三男)。文化13年(1816)18歳で十束井斎に蘭書を、松崎慊斎に漢学を学ぶ。宇田川榛斎に師事し医学を学ぶ。榛斎の勧めで長崎に行き、長崎郊外の鳴滝塾などでシーボルトに師事。シーボルト事件で幽因となる。長崎で医学教授。安政4年(1857)大槻俊斎・伊東玄朴らと神田お玉が池に種痘所開設。安政5年(1858)7月島津薩摩守斉彬家侍医。坪井誠軒(信道)、伊藤玄朴と並び三大西洋医学者と言われる。同年将軍家定の病が漢方では治せず蘭方医である伊東玄朴と共に奥医師となる。同年11月法眼となる。。文久2年(1862)坂下門外の変に際し安藤信行の治療をする。同年12月法印となる。慶応2年(1866)将軍徳川家茂の没後、正室和宮が静寛院と称したので、杏春院と改名。78歳。養子に戸塚文海(とつかぶんかい)がいる。著書:「静海上府日記」、「シーボルト処方録」、「天璋院禅御麻疹諸留帳」、「戸塚静香院法院日記」。

墓は、天王寺墓地。朝倉文夫墓向かい。「静香院殿仁山玄道居士」。墓には、「戸塚静海源惟静」とある。室、駒沢無子(?-1863)「英雲院殿梅室慈馨大姉」。