戸塚文海(とつかぶんかい) 天保6年〜明治34年9月9日(1835-1901)
海軍軍医総監・東京慈恵大病院の元を創立。名、正孝。幼名、幸吉・洪吉・洪平。字、子成。通称、静珀・のち文海。備中国浅口郡玉島村(岡山倉敷)出身。父、中桐喜右衛門(二男)。儒学を阪谷朗廬、蘭文典を寺地舟里に学ぶ。16歳で大坂の尾形洪庵に師事。後、江戸で坪井信道に蘭方医学を師事。林洞海(林研海の父)の塾頭となり、幕府奥医師戸塚静海に学び、万延元年(1860)戸塚静海の養子となる。幕命により蘭医ボンベの講義を医学伝習所で修学。我が国で初めて体温計・顕微鏡を用いた。元治元年(1864)長崎に日本で最初の洋式病院である養生所内に分析研理所(長崎大学薬学部の前身)の第3代頭取。慶応3年(1867)将軍徳川慶喜の侍医。明治5年(1872)勝海舟の周旋で芝高輪海軍病院長・初代海軍省医務局長。海軍大医監。明治9年(1876)海軍軍医総監、明治10年(1877)西南戦争では軍医部長官。明治15年(1882)高木兼寛(1849-1920)と有志で共立東京病院なる慈善病院(東京慈恵医院の前身)を創立。明治34年(1901)1月退役。「戸塚文海墓碑銘」の題額は、徳川家達によるもの。
墓は、天王寺墓地。朝倉文夫墓向かい。正面「海軍軍医総監従三位勲二等戸塚文海墓」。室、多満(1854-1932)「寿徳院殿玉質貞珠大姉」。